8/01/2010

クラクフ、それはいったいどこ??

今まで東欧諸国に縁のなかった私ですが、突然にポーランド行きを決め、クラクフ(Kraków)という街へ行ってきました。クラクフは7月の大雨でかなりの洪水被害が出たようですが、我々が訪れた時、ヴィスワ川(Wisła)は茶色く濁ってはいましたが、それでも十分に美しくゆったりと流れていました。観光名所は地下100mに岩塩で形成された礼拝堂が有名なヴィエリチカ岩塩抗(Wieliczka)や、アウシュビッツ収容所(Auschwitz)だけではわざわざ来た価値がありません。ベルリンから電車で10時間かかって到着したその夜に明日からの観光に備えて付け焼刃的学習をしました。この街にはかなり厳しい過去がありました。

990年ごろピアスト王朝(Piast dynasty)成立、1038年にクラクフはポーランドの首都になります。13世紀にモンゴルの襲撃(!)を受けて街が破壊されます。14世紀にポーランドの女王とリトアニアの侯爵の結婚でリトアニアと仲良しに。が、16世紀の終りにはワルシャワに遷都、そして王権は弱体。17世紀半ばにスウェーデン軍の進軍により街は再び危うい状態に。
18世紀後半にプロイセン王国の介入で街の標章が略奪され紛失。(標章って商標登録みたいなもんらしいです。。ポーランドの人はこの事件でドイツ人を恨んでいるかしら。。)その後すぐに、ポーランド分割により国家は消滅、オーストリア領に。(ポーランド人はオーストリアの人も嫌いかしら。。)第一次世界大戦を経てやっとポーランドが独立を果たしクラクフは無事またポーランド領に。(ほっ)そして第二次世界大戦のドイツ占領は1939年よりロシア軍によって開放される1945年まで続きました。
ソ連の共産圏下、198O年にワレサ率いる連帯が結成され、1989年に正式にポーランド人民共和国からポーランド共和国へと変更。(この辺からは社会の授業で勉強して記憶に新しいところーでしょうか。)
長い厳しい歴史でしたが、今ポーランドの経済は活性化しています。人々は労働意欲に燃えているのです。5年後はどういう変貌を遂げているでしょうか。楽しみですね。


東欧諸国のおばさんってどういう方々を想像しますか??


私はこれっ!たまたま通りかかった川添いのベンチ、あら、いらっしゃるじぁありませんか。お洋服のなんとも言えない趣味といい、厳しい面構えといい、まるでイメージを絵にかいたようなお三人。何話したはるんやろ。。やっぱ、嫁の悪口?

このおばあさんも私のイメージにぴったり。お店の軒先で必死にお財布の中身と格闘中。ずっとこの姿勢で根気強く小銭探しをしておられました。


かと思うとこんなに垢抜けた(!?)、まるでメンフィス帰りのような(いでたちの)女性もいました。この方、実は子連れなので余計目だってました。後ろを歩くのが彼女の子供?まるで母親の引き立て役みたいに地味な服装でダラダラと母親のうしろを歩きます。もしかして継母?「お父さ~んどこ?、早く戻ってきてー」妄想が妄想を大きくし。。いや妄想は楽し。


クラクフのベーグル!!オブヴァジャネック(Obwarzanck)を屋台で買ってみました。ここクラクフにはカジミエジュ(Kazimierz)というユダヤ人居住区がありました。現在でもいくつかのシナゴーグがあります。14世紀ごろから住み始めたユダヤ人は自治権も与えられて次第に地域を拡大しましたが、第二次世界大戦時にヴィスワ川対岸地区に強制移住させられたとの事です。映画「シンドラーのリスト」のオスカーシンドラーが経営していた工場がこの辺りに現在もあるそうです。

そうそう、ベーグルの話でした。ねじりが入ったパンでモチモチ感はNYのベーグルと同じ、ねじりのせいでほんの少し軽い食感です。ベーグルと同じ製法で湯がいてあるのかしら。
屋台のおばさん、カメラを向けたらちょっとはにかんでポーズを取ってくれました。かばゆーい。(えっ?かわゆくないですか?)


クラクフが輩出した有名人は、ニコラウスコペルニクス、あーその人知ってるという方々は映画監督のアンジェイワイダ、クラクフで幼少期を過ごした(だけの)ロマンポランスキー、そしてトドメは誰でも知ってるこのお方。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世、いつでもどこでもパウロは貴方と共に。パウロコイン製造機。

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