8/23/2010

グラフィティが伝えるもの

アーティストの友人のグループ展が最終日を迎え、クロージングパーティがあるというので行ってきました。NYのギャラリーは通常オープニングパーティのみですが、こちらは日本のように打ち上げをやるのですね。G 11ギャラリーは8月にオープンしたばかり。戦前ヨーロッパ一で一番の規模を誇った元ビール醸造所の建物の中にあります。


出来立てホヤホヤなんていうと、ピカピカのスペースをイメージしてしますが、ビル内部はこんな感じ。


廃墟ビルを違法占拠してるって感じですね!家賃払ってないんちゃうか?と思わず追求しそうになりましたよ。スペースは正式に廉価で借りているのとの事。ご他聞に漏れずグラフィティーだらけ、チベット開放、Peace、自己探求など、メッセージが壁天井所狭しと書きなぐられ空白スペースはありません。いかにもベルリン的!!


外壁には戦争中の弾痕の後が残っています。


まるで1960年代のイーストビレッジみたい。(私も見てませんよ!イメージですよイメージ。)
この時代、アメリカの若者を中心に既成の社会体制と価値観からの離脱を目ざす対抗文化(Counter Culture)運動が巻き起こり、彼らははヒッピー(Hippies)と呼ばれました。彼らは理性の追求よりも自己の開放を求め社会変革よりも意識改革を目指した。。。悪く言えば責任放棄、自己中心、よく言えば素直で従順、平和主義者(いやまったく)ですね。ミュージック、ドラッグを媒介として意識の拡大と変革を志向した。(この辺になると理解不能です。)
しかし、彼らのファッション、ヒッピー風は今でもここベルリンで健在です。インド更紗のスカート、髭、ロングヘアー、大きなペンダント、ヘッドバンドなどなど。彼らのアイドルだったビートジェネレーション(Beat Generation)世代のウィリアム・バロウズ(Bill Barrows)、ジャック・ケルアック(Jack Kerouac)アレン・ギンズバーグ(Irwin Allen Ginsberg)は何歳くらいまで生きたのでしょうか。ドラッグは人体にどれくらいの影響を与えるのか?ケルアックは47歳でアル中で亡くなりました。正統派死因というかドラッグがまだ世間を席巻する前に鯨飲し過ぎたようです。バロウズは長生きで1997年に83歳で心臓発作、アレンギンズバーグも同年に71歳で肝臓がんで逝去。ドラッグ乱用と寿命に因果関係はなさそうな気がします。偉人の寿命と死因に興味のある私です。カテゴリー別に死因事典を作ったらおもしろいかも。何かが見えてくると思うのですが。(悪趣味かなあ。)


中庭にHang outして有り余るエネルギーの発散場所を模索する若者。音楽とビールでー。かわいいもんじゃないですか。

8/15/2010

料理の味も水しだい

朝晩涼しくなって、葉っぱの先にちょっぴり色がついてきた今日この頃です。でも、カフェの中に座るのはまだまだーっ。ひざ掛けしながら街行く人をWatching!コーヒー飲んだりランチを食べたり、いつでもどこでも誰とでも「ちょっとお茶しない?」。
ベルリンにはカフェの文化があります。私の友人でコーヒーは家で飲まないという人がいます。家で淹れるとおいしくないから(=まずいから)という理由らしい、同じ理由で自分で料理するとまずいから(=ロクなものを作れないから)外で食事をする人が多い、だからレストランも流行るという訳。
今日のお勧めを見て決めましょう!


どのレストランも黒板にメニューが書いてあります。黒板にチョークの手書きって温か味があって良いですね。ホワイトボードに蛍光ペンみたいな下世話なネオン系もありません。


今日はヨーロッパの水の話です。
こちらの水が硬水というのは周知の事実ですが、簡単に言うとカルシウムとマグネシウムを含んでいる水を硬水、これらの塩基類を少ししか含まない水を軟水と呼びます。
私はどこに行っても水道水が飲める国ではじゃんじゃか飲んでいます。ベルリンの水道水も相当な硬さ。日本から持ってきたおいしいお茶を水道水で淹れてみました。香りもまろやかさもぶっ飛んで何やら濁った色のついたお茶とは似て非なる代物に。

煮沸すると軟水化する水は{炭酸カルシウムや炭酸マグネシウムを多く含み沸騰によって炭酸塩になって沈殿するー}、これらを一時硬水、煮沸により軟水化しにくい水は{硫酸カルシウム(石膏)や硫酸マグネシウムを多く含み沸騰しても軟化しない}これを永久硬水。
ベルリンの水道水を測ったらかなり永久の方に針が傾くんちゃうかしら。硬水で日本料理を作ると素材に含まれるUMAMI(旨味)のたんぱく質が硬水のカルシウムと結合してたんぱく質を「灰汁」として出してしまうので深みのあるまろやかさはいずこへ~~  これ、いかんですよ、ペケです。
ペケとマルを書き出してみました。

硬水のセイで、
・掃除料理と水を使ったあとは白い水滴マークがそこら中につきまくって洗浄に時間がかかる。
・シャワーヘッド、電気ポットの内部はミネラルが沈殿し、果ては詰まる。
・お茶、赤ワインなどの渋が歯について歯が即効黄色になる。
硬水のオカゲで、
・気のせいか爪がよく伸び、丈夫になったような気がする。
・硬いお肉も硬たんぱく質の放出で短い時間で柔らかく。
・歯の強度が増しついでに歯垢の蓄積もスピードアップ相反効果?(ホンマ?)

電気ポットの底の水墨画ならぬ沈殿絵。。いかがでしょうか。

この地では電気ポットでお湯を沸かすのが常識です。これが我が借家のポット。ポットの底の中心と台坐の丸い突起を命中させれば沸騰作業を開始してくれます。

これがなかなか一発でハマらないのじゃ、毎回適応能力と忍耐力を試されているように感じる今日この頃です。

8/14/2010

サーカスナイト

バルト海リューゲン島の2日目です。アルテファー(Altefahr)という街のはずれの原っぱに忽然と現れた巡回サーカス!日本ではもう目にする事もない究極の田舎の娯楽。ヒネて甘やかされて堕落した現代のお子様を騙すには相当規模の出し物を用意しないといけない昨今、このサーカスは我々が求めていた東の匂いのプンプンする落ち武者サーカスかも!

7時の開演前、テントの回りに停まっているトレーラーの傍で走り回っている一座の女の子が居ました。
カメラに一瞬照れて身じろいで、さっとポーズ。さっすがー。


飼い犬もクロ(今日からクロ、鼻が黒かったから)も愛想振りまき過ぎ。


大分年季の入った風情のテント、駄菓子を売るトレーラー、テントの横で草を食むラクダ3頭、馬4匹、山羊、勝手に増えて今は6匹(あまりに懐いていて、犬が山羊髭つけて走ってくるのかと思いましたよ)
芸人たったの6人、青息吐息、ちょっと猥雑で、ちょっぴり悲しいサーカス一座。今夜の客は18人、明日のランチはまたニシンの酢漬けだけかなぁ。
さあ、気を取り直して頑張って行きましょう!

撓るタイトロープの上をチャイナ傘持って行ったり来たりするだけのメタボ姉さん、親戚かしら?体重80キロはある鳩使いのおばさん。えーっとあのメタボ嬢はさっきまで口上を述べてたし、おばさんは駄菓子を売ってたな、切符のもぎりのお姉さんはブランコの上で逆さまになってたし。。。ピエロのおっちゃんは火噴き男に変身。
さっきの女の子は銀ラメ衣装で腰をふりふりフラフープ。
今夜一押しの出来かも。
総勢6名、我らが"Renz Circus"!!! 皆さんご一緒に!!

          We are family ♪
          I got all my sisters with me
          We are family ♪
          Get up ev'rybody and sing


もうひとつのサプライズは突然現れた(こんなん多いですね)彫刻の森ならぬ彫刻公園。

ウセドム島に向かう途中のカッツォヴ(Katzow)の広大な野原にニョッキとニョッキと立つ鉄、石、木でできた彫刻の数々。
ホームページによると"The Sculpture park Katzow"は1991年にトーマスラデロフ(Thomas Radeloff)という彫刻家が3つの彫刻を設置し、その後地元の協力を得て東ヨーロッパ、特にポーランド、エストニア、ラトビアのアーティストを中心にサポートしていましたが、評判が広まるにつれ全世界から作品が集まり、現在は18ヘクタールの土地に80の作品があるそうです。日本の彫刻家の作品もあるらしいですよ。(広すぎて探すの大変)


こちらはアンクラム(Anklam)の街で見かけたどっきりHairのアート作品。


ヨーロッパのおばさん達は髪にお金をかけるみたいです。頭燃えるようなオレンジ色とか濃ゆーい紫一色とか、ヘアーで自己主張ですね。

8/13/2010

ドイツ北限近し本日も晴天なり

バルト海 (Ostsee,英語Baltic Sea)に海を見に行ってきました。ベルリンから車で約2時間ほどアウトバーンを走るとドイツ一大きな島リューゲン島(Rügen)を見渡せるシュトラールズント(Stralsund)に着きます。 2008年にできた埠頭のオツェアノイム水族館(Ozeaneum)の威容さが目立ちます。
すわ、フランクゲイリー(Frank Gehry)作か?と思いましたがドイツのBehnischという建築事務所の設計でした。




国土の広さの割りに海岸線の少ないドイツ、6月の声を聞くと人々は海へ海へと向かいます。
ビーチの風景はどこも同じだわぁ、皆裸になって。(って当たり前ですが。)30分で飽きてしまう私です。しかし、ここの砂質は良かったです。砂というより灰に近いので足裏に心地よ~い。ベルリンで夏が終わっていたというのにここ北海岸は日差しもきつく絶好のビーチ日和、皆さん最後のあがきです。焼きたりない方、もう後はありませんよ!



このビーチキャビン(勝手に命名しました。)は日本でもアメリカでもあまり見かけませんよね。


籐で編んだ日よけベンチ、現地ではブンガロー=バンガロー(Bungarow)て呼ばれてました。古き良き時代の香りがします。その時代、女性は太ももが隠れる丈のブルーと白のストライプ水着、同じブルーのリボンのついた水兵帽を小粋にかぶってボーフレンドと仲良く並んでおしゃべり。
ところがですよォー、現代はですねェ、二人がけのシートが並んでるのに座れない。小さすぎる。。


夫に押し出されて、しょーがなく砂浜にころがるトドじゃなかった妻。
アメリカでこのビーチキャビン、どおりで見かけないはずです。

リューゲン島のほぼ南に今度は2番目に大きなウセドム島があります。リューゲン島はまったく平坦地で穀物やとうもろこし畑が続きました。ウセドム島に向かう途中の細い田舎道、並木の枝の緑のトンネル、その合間から刈り取ったばかりの淡黄色に輝く畑の海の向こう、こんもりと丸い立ち木の深緑が臨めます。トスカーナの田園風景にも匹敵するほど美しい。
このような田舎道でも制限速度80キロなので、のんびりーというよりかなりのスピードで飛ばして行きます。
ドイツのアウトバーンは制限時速なし、200キロくらいで飛ばして行く車をちょくちょく見かけます。(こわっ!)1930年代、第一次世界大戦敗北後の社会不安を背景にナチ党政権が経済政策としてアウトバーン計画をぶちあげ、プロパガンダにも利用されたらしいです。ナチ青年党員はアウトバーン建設に6ヶ月無償勤労奉仕。アウトバーンの高速道路ネットワーク計画が後にドイツを世界屈指の自動車大国にのし上げて行った。。
高速で飛ばせば道路も傷む。
この道なんか変じゃないですか?


そうなんです。パッチワークのように道路のあちこちが修繕してあるんです。延々と続く路上パッチワーク。でも、どうやって?(まさか人力じゃあるまいし)
路面の段差を自動センサーで察知してパッチして動くパッチぐるまがあるのでしょうか。ジェリーロールみたいな柔わ柔わアスファルト巻きが車の下についていて、大きさに合わせてカットしてぺたっ、ぺたっーっと。(そんなアホな)道路の幅全部?または片側だけをカバーする幅広車?
あー見てみたい、やってる所を。アメリカじゃ、こんな節約の精神ないですよー。ちょっと傷んだ箇所があれば一気にドドォーっとゴミも全部混ぜ込んでローラーでNewアスファルトにしちゃいます。(ドイツを見習いたまえ!アメリカ道路公団!そんなんナイですけど。)

8/05/2010

ゴミは発酵させてから捨てるもの

ドイツはエコの先進国、かなり昔、空港のロビーで3つに仕切られたゴミ箱を見た時さっすがぁーと思いました。現在私はベルリン在住。2010年5月にNYを発つ前、ベルリンのゴミの選別方法をさっそくチェックしました。いざ生活を始めるとなるとこういう事が一番大事。着いたその日からゴミは発生します。2008年に京都に住んだ時も緊張しました。日本のゴミ選別は驚異的と聞いていたので、従姉妹に「このゴミはどうやって捨てたらええのん?」て毎日電話して嫌がられてましたね。

ベルリンのゴミ選別。アパートのゴミ捨て場にそれぞれのゴミ箱が置かれています。ゴミ箱じゃないです、巨大ゴミコンテナですね。チビや腕力のない人を寄せ付けない強靭なコンテナです。(背が高い!蓋が重い!)


生ゴミ回収が始まったのは1996年だそうです。生ゴミはビオトンネ(Bio Tonne)という茶色いゴミ箱へ捨てます。集められ堆肥の材料として再利用されるそうです。それ賛成!でも堪えられないことがあるんです!
1週間に1回(多分)ゴミ回収の人がキャスターのついたゴミ箱を押して外に駐車してある車まで運ぶんですけど、ゴミ箱は一度も洗浄された事がありません(絶対かける2)、なので、捨てる側は必死の覚悟で蓋を開けることになるのです。まず、息を止めます、開けたら小蠅が暗闇の憩いのひと時を邪魔されたのに怒って逆襲してくるを除けながら瞬時に事を済ませなければなりません。幸いゴミ箱の蓋が目線にあるので中が見えない。見えたらおっそろしーです。

緑色の瓶、透明な瓶、茶色の瓶とガラス瓶選別も色々あります。これらの瓶専用ゴミ箱は丸い穴が上に開いていてそこからほりこむんですけど、高さがあるのでもちろんガッシャーンと割れます。意図的に割れるようにしてあるのかなぁ。(嵩を減らす、工場でクラッシュするひと手間を省く??)

アパートの中庭に響き渡るガラス瓶の炸裂音、これ私にとって一種のベルリンの風物詩です。
「今日もまた、誰かがゴミを捨てている。。」

小蠅は英語でフルーツフライと言いますが、ここベルリンのはNYのと違ってすばしっこい。部屋の中にも入ってくる。たたき殺そうと追いかけながら両手でパチッ、パチッ、パチッとやりますが、ハズレてばっかし。ベルリンのアパートで盆踊りなんかやってる場合じゃありません。
あーそれにしてもどのゴミ箱も不潔きわまりない、ゴミ捨てには覚悟が要る。なんとかならんのか?


この方達には関係ありませんね、訴えても無駄でしょう。ゴミ回収は口をきくのも憚られるような人種の方々のお仕事のようです。


日本は路上にゴミ箱がなくなって久しいようですが、こちらではこんな感じのが歩道に突っ立っています。これらもまた高い位置にあるので背の低い人は苦労しますね。ちょっと分かりにくいですが、タバコの灰皿付です。(左端)大量の吸殻が地面に落ちている街、利用度超低し意味なかったみたいですね。

8/04/2010

思いはクラクフからベルリンそしてNYへ

クラクフ旧市街の中心、13世紀当時は世界一大きな広場だった中央広場リネク・グウヴヌィ(Rynek Główny)は四方ほぼ200m。広場中央に細長い織物会館スキェンニーツェ(Sukiennice)という衣類生地の取引所だった建物があります。横100mが広場の真ん中にどかーんと建っているのです。周囲の美しい建物をパノラマで見たかったのにこの建物邪魔だわ(シツレイ)、中はこんな感じでお土産屋のオンパレーだし。。。


まっことにもって自己中心の美意識だけで物事を考えながらつらつら歩いているとー。
[美しい広場で馬車に乗ってみませんか?]
エスコートする御者は白いハイネックブラウスに真っ白いジャケット、白い手袋の片手にムチを持った若い女性。おっとその前でウォッカをラッパ飲みするアル中おじさんが居ますよ!


美と醜、戯と憐、虚と実。。
そしてこのポスター。


子供の物乞いにお金を施さないようにというメッセージです。柱の物陰に隠れて子供に物乞いさせているのが実の親というのは稀なのかもしれません、メッセージは「多くの子供達が搾取の対象になっています。貴方の施しが彼らに届くことはありません。もし、本当に子供達を助けたいのなら、下記のサイトにアクセスしてください。」
通りすがりの観光客は見逃してしまう光景ですが、私はちょっと斜交いに街を観察する癖がついています。どの国のどの街でも住んでみないとわからない事情があります。
ブッシュ政権の頃、アメリカは世界の批判の的でした。ヨーロッパを旅行していると友人達の非難の刃が私に向けられました。非難する彼ら以上にアメリカに住む我々は歯がゆい思いをしていたのですが。。。アメリカ人全体を糾弾するヨーロッパの友人達を前になんとも言えないわだかまりを覚えたものです。ひとつの国には色々な思想の持ち主が居るということを忘れてはいけないと思います。
という訳で、私は知ったかぶりで旅行先の国の政治に意見することはしないようにしています。
「批判するのはその国に税金を納めてから」がmy格言でございます。
ポーランドは意見どころか予備知識ゼロで旅行にでかけてしまいました。(どうもすみませんでした。)

施し云々でおもしろい違いがあります。ベルリンでレストランに座っていると流しの素人音楽家がやってきます。こんな感じで。


NYではレストランに専属ミュージシャンが居ればピアノのそばのチップ入れにお金を入れたりすることがあります。ベルリンでは演奏を終えた彼らがテーブルに回ってくると、皆なにがしかの小銭あげています。(演奏の善し悪しにかかわらずですよ!!)NYじゃ気に入ればあげる人も居る程度。{あんたが勝手に演奏してんでしょ、こっちは聞きたくもないのに。ったくー}と内心思っている人がほとんど。
この間、ギターかかえたトルコ親父がチップを上げないアメリカ人のテーブルでしつこく食い下がってました。「なんで?ちょーだいよチップ、なんでくれへんの??」
いずこも異国で生活していくのは楽じゃありません。


この方が路上ミュージシャンの正しいお姿。プロレス猫マスクは余計だと思うなあ。(そんな格好で演奏してたらNYじゃ誰もお金くれへんよ~)

8/01/2010

クラクフ、それはいったいどこ??

今まで東欧諸国に縁のなかった私ですが、突然にポーランド行きを決め、クラクフ(Kraków)という街へ行ってきました。クラクフは7月の大雨でかなりの洪水被害が出たようですが、我々が訪れた時、ヴィスワ川(Wisła)は茶色く濁ってはいましたが、それでも十分に美しくゆったりと流れていました。観光名所は地下100mに岩塩で形成された礼拝堂が有名なヴィエリチカ岩塩抗(Wieliczka)や、アウシュビッツ収容所(Auschwitz)だけではわざわざ来た価値がありません。ベルリンから電車で10時間かかって到着したその夜に明日からの観光に備えて付け焼刃的学習をしました。この街にはかなり厳しい過去がありました。

990年ごろピアスト王朝(Piast dynasty)成立、1038年にクラクフはポーランドの首都になります。13世紀にモンゴルの襲撃(!)を受けて街が破壊されます。14世紀にポーランドの女王とリトアニアの侯爵の結婚でリトアニアと仲良しに。が、16世紀の終りにはワルシャワに遷都、そして王権は弱体。17世紀半ばにスウェーデン軍の進軍により街は再び危うい状態に。
18世紀後半にプロイセン王国の介入で街の標章が略奪され紛失。(標章って商標登録みたいなもんらしいです。。ポーランドの人はこの事件でドイツ人を恨んでいるかしら。。)その後すぐに、ポーランド分割により国家は消滅、オーストリア領に。(ポーランド人はオーストリアの人も嫌いかしら。。)第一次世界大戦を経てやっとポーランドが独立を果たしクラクフは無事またポーランド領に。(ほっ)そして第二次世界大戦のドイツ占領は1939年よりロシア軍によって開放される1945年まで続きました。
ソ連の共産圏下、198O年にワレサ率いる連帯が結成され、1989年に正式にポーランド人民共和国からポーランド共和国へと変更。(この辺からは社会の授業で勉強して記憶に新しいところーでしょうか。)
長い厳しい歴史でしたが、今ポーランドの経済は活性化しています。人々は労働意欲に燃えているのです。5年後はどういう変貌を遂げているでしょうか。楽しみですね。


東欧諸国のおばさんってどういう方々を想像しますか??


私はこれっ!たまたま通りかかった川添いのベンチ、あら、いらっしゃるじぁありませんか。お洋服のなんとも言えない趣味といい、厳しい面構えといい、まるでイメージを絵にかいたようなお三人。何話したはるんやろ。。やっぱ、嫁の悪口?

このおばあさんも私のイメージにぴったり。お店の軒先で必死にお財布の中身と格闘中。ずっとこの姿勢で根気強く小銭探しをしておられました。


かと思うとこんなに垢抜けた(!?)、まるでメンフィス帰りのような(いでたちの)女性もいました。この方、実は子連れなので余計目だってました。後ろを歩くのが彼女の子供?まるで母親の引き立て役みたいに地味な服装でダラダラと母親のうしろを歩きます。もしかして継母?「お父さ~んどこ?、早く戻ってきてー」妄想が妄想を大きくし。。いや妄想は楽し。


クラクフのベーグル!!オブヴァジャネック(Obwarzanck)を屋台で買ってみました。ここクラクフにはカジミエジュ(Kazimierz)というユダヤ人居住区がありました。現在でもいくつかのシナゴーグがあります。14世紀ごろから住み始めたユダヤ人は自治権も与えられて次第に地域を拡大しましたが、第二次世界大戦時にヴィスワ川対岸地区に強制移住させられたとの事です。映画「シンドラーのリスト」のオスカーシンドラーが経営していた工場がこの辺りに現在もあるそうです。

そうそう、ベーグルの話でした。ねじりが入ったパンでモチモチ感はNYのベーグルと同じ、ねじりのせいでほんの少し軽い食感です。ベーグルと同じ製法で湯がいてあるのかしら。
屋台のおばさん、カメラを向けたらちょっとはにかんでポーズを取ってくれました。かばゆーい。(えっ?かわゆくないですか?)


クラクフが輩出した有名人は、ニコラウスコペルニクス、あーその人知ってるという方々は映画監督のアンジェイワイダ、クラクフで幼少期を過ごした(だけの)ロマンポランスキー、そしてトドメは誰でも知ってるこのお方。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世、いつでもどこでもパウロは貴方と共に。パウロコイン製造機。