9/28/2010

領主さま、お姿拝見したかったです。

久しぶりにマントヴァ(Mantova)に来ました。ロンバルディアの州都ミラノから南東へ電車で2時間、この前この街に住む友人に会いに来たのはいつだったかしら。。と記憶をたどれば10年前。
他都市と比べるとイタリアーノは男がイケてます、断然おしゃれスタイルも良いし、ついついじぃーっと見とれてしまいます。カフェでコーヒーを飲みながらObservation。それにしても物価上がったなぁ。コーヒーこんなに高かったっけ。。

欧州共同体(European Union)の母体となる欧州石炭鉄鋼共同体が設立されたのが1952年だそうです。ユーロ通貨(Euro)の発行が1999年、しばらくは自国貨幣と同時流通でしたが2002年に完全にユーロに移行。
2004年くらいにシシリア島に旅行した人が「南の方ではまだリラ(Lira)使ってましたよお」って。かつてのイタリア紙幣覚えてます?何万リラ何十万リラが飛びかって買い物の時、瞬間換算不可能に陥ってパニくったこと、まったくもって混乱を招く通貨でした。欧州石炭鉄鋼共同体の母体6カ国はフランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグですって、あれっ、イタリアもその中心だったのね。
その当時、ユーロに変わってから物価が上がったと感じた人はほぼ100パーセント。今、イタリアのエスプレッソは立ち飲みで1.5から1.8ユーロ位。サルデニア島で毎日バールに立ち寄るおっさんが日に2回、いえ3回行ってダベるとしたらひと月で約100ユーロ、それにタバコ代もあるでしょう。島の運転手の月の稼ぎは1000ユーロ位、イタリア庶民生活も大変ですよねぇ。

友人が連れて行ってくれたマントヴァ郊外の小さな中世の村カステラッロ(Castellaro)、人っ子一人見当たりません。お花の色とコーディネートされたシーツが奥に干してあるので誰か住んでいることは確かですね。


13世紀にヴェロナを治めていたデッラ・スカラ家(the della Scala )は広大な土地を守るために各所に砦を築き西からの敵に備えたとか。この村もそのひとつです。「ここで毎年お花フェスティバルがあるんだけどね、この前来た時は身動きできないくらい人でいっぱいだったわ、薔薇の花びらが石畳の上いっぱいに蒔き散らされてね、すんごくステキよ」とうっとりする彼女。{ふ~ん、村おこしかい、薔薇の花びらぁ?なんじゃそりゃ、カステラッロ名物薔薇ジャムとかは売ってないのか?しかし誰もおらんなー}と回りを見回す私。


石畳をたどっていくと突然立派なお屋敷が現れました。村の地主というか侯爵というか領主様というか、代々引き継がれているお屋敷がこれ。


入り口に居た召使いというか、雇われ人というか使用人と思われるのがこのおっちゃん。


「いやさなぁ~ワっすはここで働きだして45年だわ、ご主人様はそりゃエエお人でぇ、ワっすは幸せモンだあー」と言ったとか言わなかったとか。
友人が「あのぉー、お庭とか見せて頂けないんでしょうか」「庭?この奥の土地、ズズっーとみんなご主人様の持ちもんだぁ、んーだども誰にも見せね。覗きたきゃそこの門から見たらええ」

ケチ!と思いながら、鉄格子越しに垣間見た湖付きお庭がこれ。


ひっそりしたド田舎のお屋敷、いったいどんな人が住んで中はどうなってるのかな。くーっ、気になるぅ。

お昼はヴァレッジオ(Valeggio)というチョビっとだけスケールアップした村で名物カタツムリ料理を頂きました。


カタツムリといっても殻に入ってパセリバターソースをつけて頂くあれではありません。この地方のはハーブと野菜と一緒に煮込んでありました。一見、泥色であまりおいしそうな感じはしません。そして、お味も一見どおりでした。。(残念。。)
ロンバルディア地方ではポレンタ(Polenta)、とうもろこしの粉を練ったものが幅を利かせています。メインの付け合せには必ずポレンタがついてきます。以前は練りきった熱々のが添えられていることが多かったのですが、最近はどこのレストランも冷まして一旦固めたものを切ってグリルしなおして出しています。これはレストラン側の手抜きでしょうね。
マンマが弱火で練り練りしたポレンタが一番おいしいのですよ、かくいう私も5分間ポレンタ常食してまーす。

9/17/2010

煙突掃除人を見た!

地下鉄とトラムを乗り継いで一時間半くらいでコペニック(Köpenick)に着きました。ダーメ川(Dahme)とシュプレー川(Spree)の流れがぶつかる場所にこの小さな街があります。日本の感覚からいくと余裕の通勤圏内ですが、ここに居るは隠居老人だけか?というくらいのんびりしてます。

1920年以前は独立した行政を持つ街でしたが、現在は組み込まれてベルリン市行政区のひとつに。住所改正を聞いてコペニック人は喜んだのか、悲しんだのか。人に住所を聞かれた時、”字”とか”村”とかついてたら、一瞬つまって言い訳みたいなこといっちゃいません? 日本の字、村つきの住所、どんどん少なくなって、今じゃ聞いただけでホタルとカンジキを思い出すー。(それはないっか)
30分で旧市街の端まで行き着いてしまう小さな街なのに市庁舎はやけに立派です。ここヨーロッパでは街の中心にあって一番高い建物は教会、そしてでかいのは市庁舎でしょう。市庁舎はドイツ語でラットハウス(Rathaus)と言いますが、音だけ聞くとやっぱり「どぶネズミの館」(英語Rat House)、イメージわるぅ。

ここホントにベルリン?えらい田舎街です。




そのラットハウスの隣で煙突掃除の人を見かけました。若い女性です。黒のつなぎに腰には命綱、手には長い煤払いのブラシを持っていました。初めて見ました。できたら一緒に上がって中を覗いて見たかったわぁ。


一緒に居たスイス人が「煙突掃除夫を見ると幸福になる」っていう言い伝えがあるヨ!と興奮気味。
だが理由は知らんとー。ここはドイツじゃ、しかも女じゃが。
なにげに煙突掃除夫?ちょっとまた妄想にひたってみました。
昔むかし、働き者のハンス一家がおりました。ある日。。煙突→つまる→一酸化炭素中毒→寝てる間に一家昇天→村は大騒ぎ→煙突掃除は怠らないようにと村長の申し伝え→煙突掃除→父さん元気、母さん安心して夕餉の支度→一家安泰、幸せは煙突掃除から。(じゃ、ないかなぁ)

帰路は船を使いました。デッキ席は週日なので人もまばらです。ゆったりまったり1時間かけてかつての東を眺めやりながら川を下っていきます。
元工場。建物は何の目的で建てるのか?実質のみを追求したミニマリズムの美。美しい。


そしてベルリン一押しのハンサムなお方はこちら。



ティービータワーさまーっ、いつ見てもどこから見ても美しい。
東ベルリンの美の結晶。

野生の王国ベルリン

犬好きの人がドイツに来て驚くことは、ほとんどの犬がリードなしで自由に歩いていること。どの犬もしつけが良く吠え声もほとんど聞こえず、公共の乗り物でご主人の足元にちんまりと座り込んでいる犬を多く見かけること。なぜこんなに日本と違うのでしょう。


決定的な違いは犬を飼う人がきちんとした条例によって”しつけ”されているから。こちらにはペットショップがありません。まずペットは売買されるモノではないという認識から。
犬を飼いたければどうするか?ブリーダー広告などを通して手に入れるか、またはティアハイム(Tierheim)という動物保護施設を訪れ、引き取るという方法があります。なんらかの事情でここに来ることになった動物達は新しいご主人と巡えなくても、死ぬまで穏やかに暮らすことができるのです。そして犬を飼うことになったら「犬の保護条例」(Tierschutz-Hundeverordnung)に記載されている要求を満たさなければなりません。犬は家族の一員!!そしてドイツには「犬の税金」と呼ばれる税金があるそうです。これは地方自治体税で、高いところで年間2万円くらいだそう。税金を払うとなったらそれを納める人がその使途に関心を持つのは当たり前ですよね、日本みたいに子供が犬を欲しいと言ったから買い与えるというおもちゃ=モノの次元ではないのです。この税金によって犬の頭数が間接的に制限され、飼い主にも責任感が芽生えるという優れたシステム。


歩くモップ、ラスタ犬、この一見、二見どうみても汚らしい犬は多分、ベルガマスコ・シェパード・ドッグ(英・Bergamasco Shepherd Dog)だと思う。いえ、近寄ってもまったく臭くなかったです。(あたりまえか。。)

アメリカも動物愛護が進んでいます。私のお気に入りの番組、Dog Whisperer(邦題「さすらいのドッグトレーナー」)は30分番組で、問題あり子ちゃんの犬と飼い主が登場して、ドッグトレーナーのCesar Milan(シーザーミラン)が家庭訪問して関係修復または関係改善に尽力を注ぐというもの。最後は飼い主もお犬様も正気を取り戻し、めでたしめでたし。シーザーが「私は犬をリハリビし、飼い主をトレーニングする」とのたまう今シーズン6年目を迎えた人気番組。

ベルリンでは街の真ん中に突然、馬と山羊が遊んでいる広場が出現して驚かされます。


そして、異常に人間慣れしてる雀。パンくずを投げたら空中でさっと掠め取る雀、お前はかもめか!試しにパンくずを手に持ってかかげたら器用につついていった雀、お前は文長か!
くれくれーっ!モードで待ち構えるハト雀。


さて、この写真の中には何が見えるでしょうか?


正解は野生のウサギならぬアーバンウサギが4匹。保護色で工事現場にBlend inしようとしてますね。これも街のど真ん中の風景。

ベルリン動物百景でした。

9/14/2010

プラハの春

プラハといえば「プラハの春」
「プラハの春」とは何でしょうかー。経済成長が鈍化し始めた60年代後半、68年1月書記長に就任したドゥプチェクが掲げた「人間の顔をした社会主義」の事。i.e言論の自由化、市場原理の導入、粛清犠牲者の名誉回復などなどを指すチェコスロバキアの変革運動の事。自由を謳歌しようと意気込んだ矢先、これをボヘミアの若者の呆けとみた大旦那が突然行動をおこします。68年8月20日ソ連・東欧5カ国をはじめとするワルシャワ機構の軍隊がプラハなど全土に戦車を進め占領、プラハを戒厳令下に。たった8ヶ月であっけなくプラハの春は終焉を迎えます。。

思い出したのは「存在の耐えられない軽さ」(The Unbearable Lightness of Being)という1987年封切りの映画。原作はミラン・クンデラ、フランスでベストセラー。プラハの春からその後にかけてのある男の話。とても良い映画だった記憶があります。主演はダニエル・デイ・ルイス、愛人役はレナ・オリンと思い出した時点でストーリーを読み返してみました。
まったく内容を覚えていない自分にもびっくりしましたが、妻役はジュリエット・ビノシュと書いてあってdouble shock!えっ、そうだったの??{まあ、あの顔は女優にしちゃ目立たないしぃ。。}(と言い訳)クンデラは歴史により翻弄された男の一生を描いて欲しかったのに、違うところに焦点があたっていると憤慨したとか。

70年弾圧の時代を経て、85年ソ連のゴルバチョフが提唱実践した開放改革(ペレストロイカ)の勢いに乗って、1989年ハンガリーに続いてチェコでも民主化革命がおこり、そして1989年11月9日ついにベルリンの壁は崩壊したー。プラハでもブダペストでも若者は問題なく英語を操ります。
チェコが共産圏から決別したのは21年前。そうです、共産党体制後に生まれた彼らはヒップホップで育っているのです。もちろん「プラハの春」なんか教科書で見知っただけ。
美しいヤノーシュ山頂から2010年のブダペストを眺める。


ふと、眼下を見下ろすと。。青春を謳歌するカップルが。


さて、ブダペストに着いてすぐ利用するのは地下鉄、この地下鉄のエスカレーターは高速エスカレーターとして有名です。速さはですねぇ、乗る時は飛び乗るって感じでしょうか、そして降りる時、最後のステップはいつ来るのかと前方を凝視して待ち構えるーと同時に{どうぞ、すぐ前の人が着地に失敗しませんように。。}と神にも祈る気持ちです。前の人がこけたら終りです。あまりに速いため後続の人はこけた人を反射的に避ける行動に移せないでしょう。それくらい速くて長~いエスカレーター。


老人、怪我人、子供、亀、妊婦はお断り、責任は持ちませんという位速い。日本の従姉妹はエスカレーターに乗る時緊張して及び腰になり、手すりを必死でにぎりしめます。私はいつも「婆乗りやぁ」とからかうのですが、彼女がブダペストに来たら徒歩範囲の観光しかできないでしょう。木製エスカレーターも健在でした。多分1920年代か30年代の代物。
そしてこれが電車。


ブルーの車体、あらっ、おしゃれなマット仕上げ?ちがいますっ!古くなって塗料の艶がなくなってるだけです!サビ仕上げです。
中はクラシックな照明と煮しめたような細い皮のつり革(この細さがなにげに怖い)。共産圏時代の名残がプンプン。
しかし諸君!!壊れないものはいつまでも使うべし!このトラムもまだまだ使える。


インターネットが世界を網羅し、英語でプログラムされた世界に生きる若者は同じメンタリティを有し、同じファッションに憧れ、同じ知識を持っている。ほんの20年前まで、分からない事があったら「おばあちゃんに聞いてみよう!」とかメディスンマンが知っている!とか、裏のご神木にお伺いをたててみるべーという独自の解決法があったのに。。今じゃ世界どこへ行っても同じ空気が漂っています。東欧でさえこうです。ちょっと旅行の楽しみが半減しました、っていうのは私のエゴ?

9/07/2010

東欧料理味比べ

東欧諸国のお料理はどこも似たり寄ったりだ、と言うとそれぞれの国にお住まいの方の反感を買うでしょう。では言い換えて、日本のようなグルメ大国人からすると「東欧料理のルーツは同じだ、煮込みばっかりじゃないか!とつい思ってしまう」料理だと申せましょう。東ヨーロッパ内陸部を占めるかつての社会主義国家群ポーランド・チェコ・スロバキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアなどのお国料理の事です。
私にとって2度目の東欧訪問、チェコとハンガリー料理はどこがどう違うのか観察してみました。チェコの煮込み料理に添えられたクネドリーキ(Knedlíky)はユニークでした。これは白い蒸しパン風で直径7センチ位の丸い形、厚さ約2センチの輪切りにしてあります。なぜか懐かしい感じがします。 同じクネドリーキでもジャガイモ芋ベースのものは小麦粉過多のニョッキ風。形は同じです。

ハンガリーではそれらに替わり炭水化物源はライス、茹でポテト、フレンチフライなどでした。久しぶりのライス登場でちょっとほっとします。プラハで食べたお料理のほとんどは日本人にとっては「塩辛い」でしょう。ニューヨーカーのGym Ratが食べたら{かっ、からい。。身体に悪い。血圧上がる、死ぬ。。。}と拷問状態で食べなくてはならない程塩辛いのもありました。

NYタイムスの記事で紹介されていた、プラハのLokalという地元の人に大人気のレストランに行ってみました。まさに名前の通り郷土料理をちょっとおしゃれにアレンジして出すお店です。この店に限らずチェコのメニューでユニークだったのは肉や惣菜の重さ、個数が記載されていることです。最近のダイエット傾向から始まった習慣ではありません。


これって共産党体制時代の食料(難?)対策の名残かしらん?
そういえば棒状クネドリーキ、あの形、一気にたくさん作れて便利そう。あの時代。。もうもうと湯気のあがるキッチンで白い帽子にエプロン姿のおばちゃん達が太っとい腕でポテトと小麦粉をこねくり回し棒状にして、毎日何百本も作って片っ端からブチブチっと輪切りにしてたのかなー。

ハンガリーが本場のグヤーシュ(Gulyás・英Goulash)、それとロールキャベツ=トゥルトゥットカーポスタ(Toltott Kapaszta・英Stuffed Cabbage)を何度か食べてみました。
味は似たりよったり、アメリカでお目にかかるグーラッシュは思いっきり真っ赤なものが多いですが、こちらのは比較的マイルドなお色。しかもお肉もお芋もアメリカに比べると大振りです。おいしかったのですがやっぱり塩辛め。ロールキャベツもしかり。


パプリカなくしては始まらない。
このお料理、パラチンタ(Palacsinta)は気に入りました。


ひき肉をクレープで巻いたものがパプリカソースの中に浸っています。
クレープで巻き巻きしたものはデザートから何から何まで全部パラチンタ!!と呼ばれるのです。覚えにくいハンガリー語で私がマスターした唯一の言葉。(だって覚えやすいんだもん。)
ハンガリー料理のヘビーな味とカロリーをピリッと引き締めて(た気にさせて)くれるのが酢漬けのお野菜たち。市場ではこのように美しい金髪碧眼のオネエさんが今日も大瓜をシャーッシャーッと巨大スライサーでおろしていきます。

この仕事を一日やってくれって言われたら、ううっ、泣くな~。

今回の旅行で一番感激したのはケーキ!です。プラハにもブダペストにもカフェの文化がありますが、味ではありませんョ、ブダペストの皆さんのケーキの食いっぷりにです!庶民の台所、レヘル市場(Lehelcsanok)行った時の事です。朝11時ごろ2階の小さなケーキ屋さんは大繁盛。道路工事人の若者が作業着のままボスに誘われて「ちょっとケーキ食っていこうや」、20代のにきび面の男の子2人はいそいそとドでかいケーキを3つお買い上げ。2つをその場で完食。
そしてこのおばあちゃん。朝から2個のケーキを買ってかぶりついてます。(多分、糖尿病で嫁から食べたらあかんときつく言われている)そう、ケーキは手づかみで食べるものなのです!立ち食いケーキ屋もあるのですよ、この地には。ブダペスト人が日本人がフォークで気取って極小ケーキを食べているのを見たら、ププッ、でしょうね。{昔からバターやホイップクリームを食べたことのないやつらはケーキの食べ方も知らんなー}なんて思われてるのかも。


東欧料理は家庭料理。鮮度を問われる食材を使うでもなく特別な包丁さばきも要りません。このおばあちゃんがぐつぐつ煮込んで作るグーヤッシュやロールキャベツが世界で一番おいしいんだろうな。

9/04/2010

プラハぶらぶら

友人のたっての願いでチェコのプラハ、そして友人がまったく興味を示さず私が行きたかったハンガリーのブタペストという2都市を選んで旅行してきました。

建築を目指している人なら、死ぬまでに一度は行きたいプラハー。
建築家になることを考えたこともない私は口あけて上向いて歩きながら、右も左も見にゃならんー。友人の感想は「まるで映画のセットのようだ。。」私はそのような短絡的な印象を持つかわりに、これほどの建築群を維持していくのは街として予算も大変だろう、どこで観光客から金を巻き上げているのか、エジプトのツタンカーメンの様な個体なら{お金払った人だけにしか見せてあげない!!}と隠してしまう事はできるが、建物は誰でもどこからでも見えてしまうー、などと旧市街の美しい町並み歩きながら思いにふけったのでした。


友人が映画のセットのようだとのたまった建物群。(そう言われれば。。)

20世紀初頭パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックに代表されるキュビズム(Cubism)運動がフランスにおこり、絵画だけではなく唯一建築に応用されたのがここチェコのプラハ。富裕商人のデパートとして1911年ごろヨゼフ・ゴチャール(Josef Gočár)によって設計されたこの建物はキュビズム色満載です。時代を経て銀行になったりオフィスになったりしながら、これではイカンと2003年このキュビズム代表建築を世界に広めるためチェコ・キュビズム美術館(Muzeum Českého kubismu)として生まれかわりました。キュビズム絵画=平面であらわすとどんな美人も人間かどうか分からなくなりますが(あれですよ、ピカソのあれ)私はピカソのキュビズム美人画を見ると谷岡ヤスジの「アサー!」を思い出します。(なんでやろ。。)
しかし!立体であらわすと多角、多錐の形の組み合わせでこんな感じになるのですよ。


併設のカフェの椅子もこんな具合。座りにくそ~.



きつい坂を上ってプラハ城に12時前に着くと偶然、衛兵の交代式の時間でした。もちろん、興味はありません。でも、せっかくだから見てみようと人ごみの中を待っていたらこのシスター様にどーんと押しのけられました。


病人を世話するのか自分が世話されるのか知りませんが、いずこもこの職業の方々は押しがきついよーで。

9/02/2010

ラッパのマークの..

涼しいを通り越して寒い感の漂うベルリンです。
前回はベルリンのゴミ回収事情だったので今回は郵便事情をちょっと。
郵便はラッパのマークのついた黄色いバッグを前後に取り付けた自転車で配達されます。



5月に来た当初、NYから航空便で送った荷物がいつ届くのか心配でした。かなり経った頃、アパートの門のインターカムの所にかろうじて判読できる名前を書いた紙切れが、手でちぎったテープで貼り付けてありました。半分取れかかっています。
これは本当に郵便局員からのお知らせ(仕業か)?
家主に電話して、どこへ荷物を取りに行ったら良いのか聞いたら、2件先のパン屋が預かっているからそこへ行けーと。パン屋??パスポートを見せると、おっちゃんが胡散臭そうに棚の下から出してくれました。うーん、これって昔懐かしい村の郵便屋さんシステム?普通郵便は郵便屋がゲートの鍵を開けて中に入り、個々の郵便ポストに入れるくせに、「小包のお知らせ」は何故郵便受けに入れないのか。「小包ありー」の紙切れが貼り付けてあったのは通りに面した門のところです。風で落ちてしまうかもしれないし、第一誰かが取る可能性もあります。こんなええ加減なやり方で問題はないのでしょうか??

ドイツ連邦郵便は政府所有企業でしたが、1995年にドイツテレコム(電話通信)とドイツ・ポストバンク(預貯金)、ドイツポスト(郵便)に分割、株式会社として民営化になったそうです。特にポストバンクはその成功例として世界でも注目されているようです。ここベルリンのドイツポストはサービスに力を入れていて、お客様を5分以上お待たせしません!を目指しているとか。NYじゃさしずめ"お客様に十分待って頂くのがモットーでございます"、みたいな。。。NYの郵便局は足を踏み入れただけでストレスの塊がのしかかるような所ですが、ここは確かに日本の郵便局並みに迅速サービスでした。97年には民間文房具店のMcPaperを買収し、2002年には国際宅配便会社のDHLを100%買収しています。どうりで、文房具がいっぱい売ってるんですよ郵便局の中に。

郵便馬車がラッパで郵便の到着を知らせていたのでこれがシンボルマークに。

ラッパのマークと言えば、日本じゃ正露丸だわ。。
正露丸はかつて征露丸(ロシアをやっつける)と呼ばれていたんですね。明治のはじめ、クレオソートのチフス菌に対する抑制効果が発見され、日露戦争に赴く将兵たちを失うもうひとつの大きな原因、脚気も感染症だろうと勘違いした森林太郎(森鴎外)ら陸軍の軍医が正露丸を大量に配布をしたんですって。
森鴎外は1886年から通産4年もドイツに留学していたのでドイツ大好き人間。留学当時、郵便馬車を見て、「かっこええ~、制服もチョーかっこええし、ラッパのマークは最高にええ。。」なんて思って、これをシンボルマークにするよう、製薬会社に薦めたのかなぁ。あっ、また妄想に浸ってしまった。


ドイツの郵便配達は迅速確実とは言いがたいと聞きました。局員の中にはボロボロの爺さんもいて、ほんま大丈夫かいな。。。